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2009年8月

投票&荒幡散歩

Touhyoujo
夏の終わりに、夏風邪で

2~3日だらだらと過ごして

しまいました。

今日は衆院選投票日。

3日振りに外へ出てまず

は投票所へ出かけました。





 その足で荒幡周辺を1時間余り散歩。僅か3日外へ出なかっただけで秋の気配が一層深くなりました。

 女郎花(おみなえし)が秋らしく咲いています。緑色のどんぐりが葉を付けたまま沢山落ちています。

 Donguri
所沢市民の森で、落ちていたどんぐりの写真を写しているとふれあいの里センターの人に声をかけられました。選挙の話を少し。

 近くのドレミの丘公園の草むら、先日歩いた時は一足ごとに「チキチキチキ」と飛び出してきたバッタが今日はどこへ消えてしまったのか、もう出てきません。

 昨夜、テレビを見ているとどこから入ってきたのか、コオロギが一匹部屋の中を跳ねていました。

 夏の終わりの散歩の道、井上陽水の「少年時代」を口ずさんで帰りました。

「♪夏が過ぎ 風あざみ
だれのあこがれにさまよう
青空に残された 私の心は 夏模様」 

Ominaesi

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子育て支援も年金もいらない社会

Boy
子育て支援が選挙の目玉になっています。中には「子育て支援はわが党が元祖だ」などと訴える党(koumeitou)もあって「本家争い」の様相は笑止千万。

 本来子育ての責任は「親」にあり老後の親の面倒は「子」の責任だったのです。ほんの半世紀前までは子供は将来親の面倒をみる役割を担っており、「子沢山」は一家の安泰に繋がっていました。

 私たちの世代でも、自分の年金を収めながら、まだ年金制度が確立されていなかった親に兄弟で「仕送り」をして支えてきました。

 昔「長男の十七才は貧乏の盛りで、末っ子の十七才は裕福の盛り」と言われていたのです。
ところが長寿化で「隠居」の年寄りが増えたり、「老後」の期間が長くなったり、少子化で「仕送り手」が少なくなったりで、この循環は機能しなくなりました。

 子育て支援は、年金制度と両輪になったのです。

 もちろん少子化の解決は「現金給付」だけではないと思いますが、社会の変化に対応していくには、大胆に発想を変えるしかありません。

 超非現実的な夢想ですが、「年金も子育て支援もいらない社会」が理想なのかもしれません。

 今、所得の再配分の財源は税と年金保険料ですが、厳密には再配分の経費も掛っています。「高齢者の就労機会の確保」や「現役世代の収入増や減税」の方がコスト負担も掛りませんし、世代間の精神的結びつきも保つことができるかもしれません。

 残念ながら現状では年金も子育て支援も国の再配分機能を強化するしかないのかもしれません。

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孫の夏休み プール(西武遊園地)

Pool
毎年、どこかへ連れて行きます。
「どこへ行きたい」と聞くと「絶対にプール」。クロールで泳げるようになったのを見ても

らいたいようです。

 歩いてでも行ける西武遊園地のプールならゆっくりあそんで、遊園地でも楽しめるので爺さん、婆さん、娘、孫二人で出かけました。

 老いさらばえて「カイパン姿」をさらすのもは憚られて、ズボンのすそをたくし上げて、それでもズボンを濡らながらプールサイドで声援を送ってやりました。

 ウォータースライダーでは、身長120センチ以上の計測にパスして、喜び勇んで挑戦すること数たび、ようやく飽きて戻ってきました。

 小1の孫娘まだ水に恐怖感があって苦戦していましたが、それでも浮き輪の浮力を借りて波に弄ばれたり、流れに身を任せたりしていました。

 お弁当の時間を挟んで、3時間余りプールから上がってきましたが、今度は遊園地で遊びたい様子。大人3人は聊か疲れて孫どもを折伏して帰りました。

 自らの衰えを実感し、子供のあふれるエネルギーに驚き一入。

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処暑(狭山公園・多摩湖)

 夏休みも最終盤、帰った孫たちも宿題に追われている頃です。来週の質曜日は総選挙で、今日が事実上、夏休み最後の日曜日になるかもしれません。遊園地付近はプールに行く人たちでにぎわっていました。

 今日は処暑、暑さが納まるころとされています。昨日に比べて空気の重さはなくなりましたが、暑さはまだ残っています。

 狭山公園・多摩湖へ小さな秋を見つけに行きました。

    ススキが穂を出し
    桜の葉は黄色くなり始めて
    百日紅花に混じって小さな種をつけ
    大きな栃の木の下には
    未熟のまま栃の実が落ちて
    茸も秋らしくなりました

一見夏と見える景色も秋の気配が感じられます。 

Sayamap05


   

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あらためまして「保守宣言」

いつの間にか、真夏の選挙戦が始まりました。
衆院解散以来もう1ケ月が過ぎてようやく本番入りしましたが、殴り合いの乱戦模様に聊か食傷気味です。
 
 そんな時突然の「保守宣言」。
曰く「我々は守るべきものは守る! 伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。」

 ああ「保守」ってそういうことなんですか?
確かに辞典には「現状維持を目的とし、伝統・歴史・慣習・社会組織を固守する主義。」と書いてありましたが・・

 所詮、4年前のスローガン「改革!」は無理だったということなのでしょうか

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孫の夏休み バットの素振り(荒幡神社)

Batting
 孫息子は小4。今年からリトルリーグで野球をやっています。仕事で留守番をしている父親と我が家に滞在中もバットの素振りの約束は、毎日200~250スイング。野球の道具持参できましたので、毎朝近くの荒幡神社の境内で素振りにお付き合い。

 体格は4年生にしては大きくはありませんが、毎年力強くなっています。
爺馬鹿ですが、スイングスピードもなかなかのもの。伊達に毎週練習しているのではないと感心しました。

 一緒について来た小1の孫娘。お賽銭10円を渡すと、柏手を打って何やら真剣にお祈りしていましたので「何をお願いしたの」と訊ねると、「それは言ってはいけないの」と返されました。

 孫息子が捕まえたセミを怖がっていた孫娘が、落ちていたせみの亡骸を見つけて、「生きている蝉は怖いけど、死んだ蝉は可哀そう」

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孫の夏休み(西武遊園地の花火)

西武遊園地の花火を毎年楽しみにしてきます。
これまで何回か遊園地へ行って午後からいっぱい遊んで夜に花火を見ていましたが、今年は日曜日(16日)着いた日に多摩湖畔まで行って見ました。車が一杯で駐車できず、結局運転手をしていた娘は孫と私を降ろしてあてどなく多摩湖を半周して戻ってきてくれました。

親は犠牲になりましたが、孫たちは喜んで花火を楽しんでいました。

およそ30分の夏の夜の華やぎでした。終了後コンビニでアイスクリームを買って帰るのも孫たちには楽しみの一つ。少々の夜ふかしも夏休み中の特権です。

 花火は家から音の振動とともに十分見えるのですが、やはり近いほど感動も一入です。
Hanabi


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セキュリティーソフト 安い?高い?

Key


セキュリティーソフトの更新期限が近くなって一年延長の手続きをしました。
OSもアップデートなどが便利のなりましたが、セキュリティーは今まで通り、別途にユーザーが自己管理しなければならないのでしょうか。

 さて、素人考えかもしれませんが、OSの中になぜセキュリティーソフトが組み込まれていないのかよくわかりません。

 OSメーカーもそれなりにセキュリティーソフトを組み込んでいるのですから、一応「それで十分です」というのが建前のような気がします。

 言い方が悪いかもしれませんが、OSメーカーとセキュリティーソフトメーカーが上手に住み分けしているように感じます。

 一年延長で手数料込で6000円超はちょっと値段が高すぎではないでしょうか。

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アメリカの呪縛(被占領時代の10円札)

10yen0

1945年8月15日、日本は戦争に負けてアメリカ(連合国軍)に占領されました。
東京の街中を米軍用車ジープが疾駆し、アメリカ兵が大手を振って大股で闊歩していました。
占領は1951年サンフランシスコ平和条約、1952年日米安保条約の締結まで続けられました。連合国による占領とはいえ事実上アメリカ単独占領でありアメリカの方針に従って占領政策は進められました。

 武装解除、憲法制定、農地改革、経済政策など多岐にわたってアメリカの方針に従ったのです。

 そんな占領下で右の絵のような10円札が発行されたのを覚えているでしょうか。この図柄から日本の国会は米国(議事堂の周りは米という字に見える)に支配され経済も鎖(拾円の周りは鎖に見える)に繋がれていると揶揄されました。

 戦後64年、日本は復興を果たしましたが、日本国内にはなお多くのアメリカ軍が駐留を続けています。アメリカの核の傘の論議もまだ消えていません。経済も長くアメリカの景気に依存しています。
 
 10円札のようにまだアメリカの呪縛から脱していないのでしょうか。

 

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立秋を過ぎて(狭山丘陵・所沢市民の森)

Momijinomi
やっと夏らしい天気になりましたが、気がつけばもう立秋を過ぎています。
昔の暦は正確で、もう秋の気配はそこかしこに。

 市民の森では蝉の合唱が盛んですが、気がつけばツクツクボウシの声が優勢になってきました。
 コナラの緑色のどんぐりが道端に落ちていました。夕方散歩に出たら所沢市民の森に子狸の兄弟がちょろちょろ現れて、目を合わせたらスーッと森の中へ消えて行きました。

 鳩峰の水天宮の銀杏の木の下には、黄緑色の銀杏の実が割れて落ちていました。
イヌシダも葉の間に実付けていますし、モミジは竹トンボのような種を飛ばす準備をはじめていました。

Hatominehatiman

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戦災孤児・傷痍軍人・パンパン

 Sengo
東京の空襲で10万人を超える人が亡くなり、多くの人が住む家を失いました。
戦後、上野駅周辺などで沢山の戦災孤児がストリートチルドレンになりました。私たちと同じ年代の子供たちが、ちぎれて汚れた着物、埃だらけの頭、うつろな目で所在な気に右往左往していました。中には追い詰められて犯罪に手を染めた子もいたかも知れません。それでも精一杯生活していたのだと思います。間もなくするとそれぞれの生活を見つけたのでしょう、いつの間にかいなくなりました。厳しい生活を強いられたとは思いますが、きっと私たちよりも逞しく立ち上がったと信じています。

 靖国神社や繁華街など傷痍軍人姿の人が義足や義手をむき出しに、アコーデオンやバイオリンを演奏して物乞いをしていました。悲しくいやな思いをしたものです。大人の噂では多くが偽・傷痍軍人だとのことでした。靖国神社の傷痍軍人はかなり後までいたように記憶しています。戦争の悲惨さを思い知らされた光景でした。

 パンパンは占領統治下、在日米軍兵を相手の街娼のことです。米軍基地は全国各地にあって「パンパン」は厚化粧の派手な服装は、まだ日本人が質素なモンペ姿が残る中、一目でそれとわかりました。GIと言われた米兵の腕に凭れた姿は本人が一番つらい思いをしていたのかもしれません。

 戦災孤児も傷痍軍人もパンパンも皆いつの間にか消えていなくなりました。

戦後復興を目指していた社会がどんな形にしろ吸収して行ったのです。国民ひとしく貧困であっても、社会の活力があったからだと思います。

 今、貧困や格差が深刻な状況です。問題の一つはそれを吸収する社会の活力が感じられないことです。ここはやっぱり政治の出番の筈です。


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都電 懐かしい下町路線

Toden
 高度成長が本格化する前の昭和30年代くらいまでは、都電は都内の交通手段の主力でした。
1~41系統まで網目状に走っていて路面走行で停留場が多く時間は掛かっても便利この

上ありませんでした。第1系統は上野から日本橋、銀座、新橋、三田経由品川行きのメイン路線だったと思います。
 36系統(下町路線)は、高校の頃1週間に2~3回利用した懐かしい路線のひとつ。錦糸町には我母校そして江東楽天地がありました。森下町は少し歩いて高橋のどぜう屋。新大橋で隅田川を渡る。

 川上の橋が両国橋、川下の橋が永代橋。この辺りは隅田川の川開きで賑わいます。浜町は明治座最寄りの停留場で、蠣殻町から茅場町にかけては証券会社街でここから直進すると日本橋ですが、左折して八丁堀方面へ向かう。
 
 築地は魚河岸の場外市場の外れに到着。鰹節屋とか箸屋とか折箱屋とか、昼過ぎには暖簾を下ろす食堂が並ぶ。東劇や歌舞伎座も近く、銀座四丁目までは歩いても7~8分。(停留場名は思いつくままでとびとび)
 路面の都電も今は早稲田・三ノ輪橋間の荒川線だけになりました。

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長崎原爆の日・平和祈念式 

Oriduru
 
原爆64回目の夏を迎え平和祈念式が開催されました。
今年も6日の広島、9日の長崎の祈念式にテレビで参加しました。(広島、長崎の平和祈念公園には2度行きました)

 今年はオバマ大統領のプラハ演説の核廃絶に言及したことで、広島市長も長崎市長も核廃絶への取り組みに堅い決意を表明されました。平和を希求する多くの市民にとって明るい兆しです。

 毎年のことですが、今日の長崎平和祈念式で、爆心地近くで多くの犠牲者を出した城山小学校の生徒たちの「子らのみ魂よ」と純心女子高校の学生たちの「千羽鶴」の合唱には思わず目頭が熱くなります。音楽の持つ力を感じています。

 今年も平和祈念式では首相の挨拶がありました。毎年「非核三原則と被爆者援護の約束」に終始しているのは少し悲しい思いです。

 揚げ足をとるわけではありませんが、広島では「言及」を「宣言」と言ったり、長崎では「傷跡(きずあと)」を「しょうせき」と読んだり相変わらず注意不足です。

 言及と宣言では全然意味が違います。
 原稿に証跡(しょうせき)と書いてあったのなら正しい読み方ですが。 

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戦後教育・義務教育六三制の実施 ボロ校舎

 戦後僅か二年後の昭和22年に義務教育六三制の実施が実施されました。
全国に3年制の中学校を創ったのです。今のスローな政治・行政を考えると全く素早い対応だったと思いますし、まず教育の再生に取り組んだのは先見の明といえます。

 私は昭和23年中学に入学したいわば新制中学2期生です。従ってまだ3年生はいませんでした。

 制度の実施は素早かったのですが、当然のことながら校舎はありませんでした。

 入学した1年生の時は国鉄で2駅先の私立女子中学の校舎に間借りでした。2年生になって今度は工業学校の旧校舎に移りましたが、窓枠も碌にないほとんど吹きさらしの寒い校舎でした。

 自前の校舎ができたのは卒業間近の3年生の秋だったと思います。

 今、箱物行政と言われて、まず入れ物を作って後から考えるのと大違いです。
 ともかく教育を充実させることを優先にしたのは政治の英断だったと思います。

 新校舎はモルタル2階建てで3棟のモダンな校舎でした。
「クリーム色の3棟の校舎・・・・」は市長はじめ大勢の来賓を迎えた落成式の謝辞の一節です。生徒会長をしていた私が巻紙に苦労をして筆で書いたものです。

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武蔵国分寺(8/6)

 JR西国分寺駅から歩き始めて国分寺公園~鷹の道・真姿の池湧水~武蔵国分寺~西国分寺駅へ。

 国分寺公園の円形の広場を一周して歩道橋を渡って地図に引かれて、お鷹の道・真姿の池湧水に出ました。
 蒸し暑い日でしたが、生い茂る木々に包まれた小さな湧水の水辺は少し涼しく感じられました。

 湧水でペットボトルに湧き水を汲んでいるご婦人に「水は飲めますか」とお聞きしたら「沸かして飲みます。”国分寺の水”を売りにした喫茶店などもあります。マイナスイオンで気持ち良いので、ときどき水を汲みに来ています。」とのことでした。少し世間話をして別れました。近くのせせらぎで子供たちが数人、ザリガニと遊んでいました。

 お鷹の道は江戸時代のお鷹場に由来するそうですが、道沿いの小川ではホタルの養殖が試みられているそうです。

 武蔵国分子に参詣して、万葉植物園を通って西国分寺駅へ戻りました。

 汗びっしょりの2時間近くの散歩でした。

Masugataike

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食糧買い出し 帯芯のリュックサック

Imo
東京の空襲で焼け出されて、知人を頼って千葉・市川へ家族で引っ越すことになり学童疎開していた私たち姉弟もやむを得ず疎開先から合流したました。
 
 狭い一部屋に一家7人の暮らしは戦後しばらく続きました。

 食糧不足は甚だしく食糧統制下で法律を守って配給だけで生活すれば飢え死にする状況でした。

 やむを得ず農家へ直接食糧を買い出しに行きました。当時インフレ下で現金に余り価値がなく焼け残った着物など金目の物と食糧の物々交換でした。

 ある時、千葉・成田近くの白井へ父親に連れられて買い出しに行きました。もちろんお米を買いたくて行ったのですが、どうしても買うことができず、サツマイモをリュックサック一杯に背負って帰りました。警察の取り締まりの目を警戒しながらの買い出しでした。
 

 その時のリュックサックが帯芯で器用な父親がひと針ひと針縫って作ったリュックサックでした。多分、帯では何の足しにもならず有効活用したのだと思います。

 食糧の買い出しは何度か行きましたが、農家の高姿勢にみじめな思いをしたこともあります。

 

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懐古の夏に 古橋広之進さん死去

戦争の傷跡も癒えず食糧事情もスポーツ環境も悪い時代に、「フジヤマノトビウオ」と言われた古橋さんの世界記録連発は日本人に大いなる勇気を与えてくれました。特に古橋さん、橋爪さんのロサンゼルス全米選手権での活躍は戦争に負けても日本人は強いという自信を持たせてくれましたし、戦後復興の精神的支柱になったことは間違いありません。

 正直なところご高齢になってもIOC会長を務められており、聊かIOCの体質の古さの象徴のように思われましたが、スポーツ界への数々の功績は文化勲章受章に結実しました。

 ご冥福を祈ります。

 まだ、ラジオやニュース映画の時代でしたが、プールサイドの出場選手の紹介のアナウンスの声に抑揚がありました。

 「第五のコ~~~ス 古橋クン 日本大学」懐かしい響きです。何時のころからか抑揚はなくなり普通に紹介されるようになりました。

 駅のアナウンスも平たんになりました。昔は上野に着いたとき「上野~~、上野~~」抑揚のあるアナウンスでした。「あーやっと着いたか」という思いがあったものです。

Tobiuo


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蝉の抜け殻(荒幡)

Seminukegara
荒幡富士の近くの梅林の生垣に

蝉の抜け殻がいくつも集まってつ

いていました。

蝉は夜9時ごろから羽化し始め

ると聞いたことがあります。

昨夜長年の地中の生活からようやく抜け出して僅かな時間木々を飛び回り、

腹を震わせて鳴き喚くのでしょう。

 近くのドレミの丘公園では虫取り網と虫籠を持った子供が二人、木の枝をつえ代わりにしたおじいちゃんと小さなバッタを追っていました。

 孫にせがまれ老骨に鞭打って虫取りにお付き合いです。

どこのおじいちゃんも孫の可愛さには抗いようもないのかもしれません。

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8月は懐古の月

毎年、8月は昔を懐かしむひと月。
お墓参りで故人を想うからからでしょうか。夏休みで子供や孫がやってくるからでしょうか。
テレビや新聞が原爆の日や終戦の日を特集するからでしょうか。
花火の音が聞こえるからでしょうか。

 今朝、荒幡富士へ散歩に出かけました。浅間神社の拝殿で柏手を打って戦時中のことを思い出していました。

 戦時中、神社の前を通るときは、必ず参拝して通らされました。たとえそれが神明さまでも、八幡さまや天神さまや氷川さまでも、みんな神様に変わりがありませんでした。正に「神の国」であったのかもしれません。殆どの家庭にも神棚があって、天照大神が奉ってありました。

是非は兎も角そんな時代でした。

Afuji04221

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ザリガニ捕りのメッカ? 荒幡

Zarigani0
荒幡富士への道端に小さな排水路があります。
ときどきザリガニ捕りをしている人を見かけます。

 親子連れは、偶々通りかかったのでしょう。そこらで拾った竹の切れ端で釣り上げようとして、ザリガニに先っちょを掴ませるまではいいのですが、どうしても釣り上げることはできません。後で聞いたら結局捕れなかったそうです。

 昔懐かしいスルメを餌にして釣っている親子はバケツの中に20匹位の釣果を上げていました。

 時にはビニール管が仕掛けてあることも。先日は草を束ねた仕掛けが沈められていました。

 西武園ゴルフ場の方から流れてくる細いコンクリート管があってザリガニの供給源になっているのでしょう。毎年かなり捕まっているはずなのに、いなくなってしまうことはありません。

 それでも大きく成長するチャンスは与えられていないと見えて、サイズは小振りです。

 わが孫も毎年夏休みになると楽しみにして遊びに来ますが、今年はそろそろザリガニから卒業する頃かもしれません。

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